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第76話 雨の夜の抱擁

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-27 00:08:18

 雨は、夜になってから急に強くなった。

 窓硝子を叩く音が、部屋の中まで細かく響いている。外の街灯は雨粒に滲み、廊下の非常灯の赤い光も、どこか遠く見えた。奏音は夕食のあと少しだけ絵本を読んでいたが、やがてページをめくる手を止め、胸元へ小さな手を当てた。

「ママ」

 その声で、詩乃の背筋が一瞬で伸びた。

「どうしたの」

「ここ、変な感じ」

 奏音は胸の辺りを指した。

 痛いとは言わない。苦しいとも言わない。ただ、違和感をどう表せばいいのか分からない顔で、詩乃を見ていた。

 詩乃はすぐに奏音のそばへ膝をつき、顔色を確認した。唇の色。呼吸の速さ。額の汗。手の冷たさ。手術後に何度も教わった確認項目が頭の中を走る。緊急搬送が必要なほどではない。そう判断できる程度の落ち着きは、まだあった。

 手術室の赤いランプが蘇る。医師の低い声。一度、心拍が停止しました。その言葉が胸の奥で鳴り、詩乃の指先から熱を奪っていく。

「大丈夫。ゆっくり息をしようね」

 詩乃は自分の声を必死に整えた。

 奏音に水を少しだけ含ませ、背中を支え、呼吸の間隔を一緒に数える。携帯用酸素と医師から渡された緊急時の手順を確認しなが
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     詩乃は、正式に離婚訴訟を起こした。 旭の事務所の会議室で、最後の確認を終えた時、窓の外には淡い朝の光が差していた。机の上には訴状の控えと、添付資料の束が整えられている。婚姻関係の破綻。継続的な精神的冷遇。病院で頬を打たれた事実。白川芽衣との関係。五年前、妊娠を知らせようとした詩乃の声が怜司へ届かなかった経緯。そして、奏音の存在を知った後も、離婚を拒み、母娘の生活を管理しようとした一連の行為。 どれも、紙の上に置かれるとひどく乾いて見えた。 けれど詩乃には、その一行ごとに温度があった。鷹宮邸の冷たい食卓。病院の白い廊下。会社の下で待ち続けた夜。奏音の熱い額。閉ざされた扉の向こうで泣いた幼い声。怜司から差し出された、守るという名の檻。 親権と監護については、すでに出ている暫定判断を基礎として、詩乃を指定するよう求める。奏音の生活と医療判断を支えてきたのは詩乃であること。怜司は父親として情報共有と面会を受ける立場を認めるが、監護を妨げてはならないこと。その線は、旭が何度も言葉を選びながら整えてくれた。「提出します」 旭が言った。 詩乃は頷いた。 手は震えていなかった。 奏音の誕生日を壊された夜、もう待たないと決めた。怜司が変わり始めたことは分かっている。父親として奏音を守ろうとしていることも、以前よりは理解できる。けれど、それでも離婚を拒み続ける限り、詩乃の人生は怜司の手の内に残される。 それを、終わらせる。 同じ頃、怜司のもとへ訴状が届いた。 鷹宮グループの役員会の途中だった。長いテーブルには事業再編の資料が並び、役員たちはそれぞれ数字と資料に目を落としていた。秘書が封筒を差し出した時、怜司はその差出人を見ただけで、会議室の音が遠ざかるのを感じた。 神澤詩乃。 訴状の文字を見た瞬間、胸の奥が硬く沈んだ。 怜司は封を切り、紙を取り出した。読み進めるほど、そこにあるのがただの法律文書ではないことが分かる。七年間、自分が見ようとしなかった詩乃の痛みが、冷静な言葉に変換されて並んでいた。 精神的冷遇。  暴力。  婚姻関係の破綻。  離婚意思の明確な表明。  未成年の子の監護に関する申立て。 怜司は、最後まで黙って読んだ。 顧問弁護士が慎重に口を開く。「怜司様。親権については、現状を考えると争わない方が得策です。暫定判断も出てい

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